折形の歴史
折形は将軍家中心に秘伝として門外不出で伝承されてきました。古文書によれば、原型は鎌倉時代に誕生し京都室町時代の三代将軍足利義満が高家に命じて武家独自の礼法を制定し、大名・旗本などに限って指導しました。外の礼法(弓馬礼法)は小笠原家が、中(うち)の礼法(殿中の礼法)は伊勢家が任され、礼法を指南しました。それらの礼法の中に和紙で贈り物を包む「折形」がありました。社会の頂点にあった天皇家中心の公家社会でも和紙を使った折形がありました。公家は主に絹の布 (布帛)で包み、絹の紐で結ぶやり方が中心でしたが、それに対して武力を誇った武家は主に強靱で白い和紙を使って包み、和紙を縒った紙縒り(または水引)で結ぶ独自の文化を考案しました。多彩な自然界の色を使った絹の文化が公家、それに対して自然界の生なりの分厚い楮の繊維で作られた和紙を使ったのが武家の和紙文化です。
時代が平和になり江戸や大阪中心に商人文化が栄えると、武家は仕事を失い同時に門外不出であった折形礼法も寺子屋などで教えられて一般に普及して行きました。多くの礼法の流派も派生していき、混乱も生じました。全国の農家が副業で和紙を漉くようになると和紙も一般に普及し、特に折形の粉包みなどの造形のおもしろさから、単に形を折って楽しむ「遊戯折形=おりがみ遊び」が急速に普及しました。物を包む礼法から形を作って楽しむ「工芸、遊び」として発展します。器用な日本人ならではの応用発展です。
明治以降現代社会での折形
明治以降、義務教育では作法の一環として必ず折形を学びました。小学校の一部、高等女学校などでは教科書に20~30種類の折形が必須項目として掲載されていました。大正生まれの世代の方が最後の習得者です。
しかしながら第二次世界大戦終了後急速な欧米文化の普及に伴って学校教育から折形礼法は突如消失してしまいました。
以降、百貨店が贈り物を包装し、熨斗紙を貼りつけ、相手先に送り届けてくれる代行サービス文化が一気に普及しました。同時に既成品の祝儀袋とよばれるお金を包む折形が販売されるようになりました。現在ではコンビニエンスストアーや百円ショップなどでも買えるようになりましたが、本来の原則から外れたものも多く売られています。
また、進物を贈ることを「贈進」と呼びますが百貨店が考案し、広めた「贈答」という言葉とその行動は本来の礼法からはかけ離れた考えかたです。贈られたれ方にすぐに贈り返すことはしっぺ返しと捉えられます。義理や形式は礼の心ではないのです。